白クマとウォッカの国のYuko&Sasha

ペアスケーターの川口悠子選手とアレクサンドル・スミルノフ選手を応援する公認ブログです。

June 2011

「サンクトペテルブルグ名誉市民T.N.モスクヴィナ インラインスケートレース」

日時:6月25日(土) 18:00〜 コンサート(宮殿広場)、19:00〜 インラインスケートレース


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いつの間にかペテルブルグの6月の風物詩となったインラインスケート大会です。
今年はサンクトペテルブルグ名誉市民モスクヴィナコーチの生誕70周年祝いを兼ねて、
コーチの誕生日の前日に行われるようです。

70歳を迎えるモスクヴィナコーチは
「私はまだ40歳の気分なんだけど」
とおっしゃっていました。

ペテルブルグ在住の方は、是非宮殿広場までお越しください。
インラインスケートで華麗に滑りながら、マイクを持って延々と話し続ける(フィギュアスケートの説明をする)モスクヴィナコーチの姿が見られるかもしれません。



モスクヴィナチームの選手たちは6月26日(日)にイタリア合宿に向けて出発のため、
このイベントに参加するかどうかはまだ決まっていないそうです。

バンクーバーでの問題は、ロシアに一度もチャンスがなかったということではない。チャンスはあった。
しかし、1964年のインスブルック五輪での初金メダルは別としても、世界選手権で優勝したことのない、または五輪出場経験のない選手をロシアが五輪に(メダル候補として)送り込むということは今までに
一度たりともなかった。
オリンピックに間に合わせるために(補足:オリンピックに出られるレベルにするのにという意)、
カワグチ&スミルノフ、モスクヴィナコーチには4年が必要だった。モスクヴィナの職歴(これまで教えてきた選手の中)にはきわめて短期間で五輪に備えられた選手たちがいた。カザコワ&ドミトリエフはペアを結成してから長野五輪で金をとるのに4年もかからなかったが、彼らのシチュエーションはユウコ&サーシャとは違っていた。ドミトリエフは既にアルベールビル五輪で金、リレハンメル五輪で銀メダルをとっていた。五輪に関していえば、彼は経験済みだった。カザコワにとって、ドミトリエフは単なるパートナーではなく、ある種コーチの役割も果たしていた。モスクヴィナに匹敵するくらいの。

カワグチ&スミルノフにとってバンクーバー五輪は何もかも初めてだった。五輪でのメダルは現実的ではなかったが、モスクヴィナのこれまでの門下生が果たしてきた、五輪のメダルをとるという課題がこの二人にもかかってきた。
このペアはバンクーバーで金をとれただろうか? ショートプログラム後、3位のカワグチ&スミルノフと
1位の中国ペア(申雪&趙宏博)との点差はわずか2.5であり、実際、金メダルをとれる可能性があるのではないかと思えた。モスクヴィナが取って来た方針(やり方)が最後まで正しかったと思いたかった。
バンクーバー到着までその方針が間違ったことはほとんどなかったのだから。二つのプログラムはより練り上げられ、クリーンになり、カワグチ&スミルノフの成績も急上昇していた。

別の問題はこのペアは綱渡りをしているかのように見えたことだった。ユウコとサーシャは何度もフリープログラムの難度を上げようとし、長い間ペアの試合では稀有な4回転スローを成功させようとしていた。4回転スローは成功することもあり、失敗することもあった。そのエレメンツ(4回転スロー)をユウコはアメリカ人パートナーとトレーニングしていた時から既にやっていた。
しかし、最終的にはスロー4回転の回避を余儀なくされた。その理由の一つは、ユウコの怪我、慢性化した脱臼のせいだった。

1月のタリンでの欧州選手権、ユウコはフリープログラムの演技中に肩を脱臼した。ユウコは瞬時に状況を理解した。激痛に打ち勝ち、自分で肩をはめて治し、何ごともなかったかのように演技を続けた。
アイスダンスの金メダリスト(06、07年世界選手権)、アルベナ・デンコワはその時観客席からこのペアの演技を見ており、私にこう言った。「あんなことができるのは、ロシア人選手だけだと思っていました。
あのように我慢して、自制できる人は他にいませんよ」

逆説的だが、カワグチ&スミルノフのバンクーバーでの失敗の大部分はコーチの責任である。
ショートプログラムの演技後、フリーの演技構成(予定)表でユウコ&サーシャがあの4回転スローをやろうとしていたことがわかった。
「何のために?」、その答えを探すのに、私は丸一日を費やしたが、答えはやはり見つからなかった。
一か八かの賭けに出る? ここ最近の試合では4回転スローを入れてきていなかったのに? モスクヴィナらしくない。モスクヴィナにはいかなるときも冷静な目算があった。ライバルを威嚇するために? これも説得力に欠ける理由だ。それともユウコ&サーシャは練習ではずっと4回転スローの練習をしていて、成功できると確信したからだろうか?

その答えは現在に至るまでわからない。演技後、ユウコ&サーシャが話したことを元に推測するだけだ。二人は実際、4回転スローの準備ができていた。しかし6分間練習の後、モスクヴィナは回避の指示を出した。リスクはおかさない、スローは3回転のままでいくように言ったのだった。

演技前、モスクヴィナはリンクサイドでいつになく長い間、カワグチに何かを説明し、納得させてようとしていた。ユウコは混乱しているようだった。
演技開始までのわずかな時間で、気持ちを立て直すことは、ユウコとサーシャにはできなかった。
スロージャンプの入り、高さ、軌道も力強かった。完全に4回転回れたほどに。
しかし3回転の後、空中のカワグチの体が開き、回転の慣性が消失してしまった。
最初の1分でユウコは完全に動揺していた。そしてそれに続いてパートナーも動揺した。

初五輪の選手にとって、これはまったく普通のことだったのだろうが、二人からメダルを切望する人たちにとっては、滑りは悲惨なことになっていた。ユウコは二度目のスローで転倒し、リンクに手をついたときにまたもや肩を脱臼してしまった。二人は気丈にも最後まで滑り通したが、もはや苦し紛れのスケーティングだった。優勝のチャンスは訪れなかった。

バンクーバー五輪の1年前、モスクヴィナは自分の選手たちのことをこう話していた。
「五輪の開催地にソチが決まったと聞いたとき、「その時までトレーニングをしないといけないのか?」と
思いました。もちろん、カワグチ&スミルノフのことだけでなく、自分のことも入れてですよ。
ユウコとサーシャはソチまでに五輪経験を積むでしょう。そして、肉体的にもまだ枯渇はしないと思っています。二人はやっと創造的に自分たちを表現しはじめたばかりです。まだ4シーズンしか一緒に滑っていないのです。つまり、スポーツにおける高い達成(補足:世界レベルの大会での優勝)はそう遠くないでしょう。同様に二人の心理状態も若々しいままです。これはとても大事なんです。多くの余力を残しています。とりわけ精神面では。肝心なのは、健康であることです」



五輪シーズンが終わってから2週間後、私はモスクヴィナから電子メールを受け取った。その内容は彼女の電話の口調とまったく同じだった。
「ユウコは日本で手術をして、ペテルブルグに戻ってきます。新しいシーズンのトレーニングを始めますよ……」
(了)

バンクーバー五輪の1年前、モスクヴィナと元アイスダンス選手ピーター・チェルニシェフ
(ロシア語読み:ピョートル・チェルヌィショフ。ペテルブルグ出身。ナオミ・ラングとペアを組みアメリカ代表)は共同でサン・サーンスの「白鳥」を振付けた。その振付を気に入ったユウコは、更に1シーズン、
その白鳥を滑ることを決めた。

2010年1月、カワグチ&スミルノフはタリンの欧州選手権で優勝した。
試合の最後に「サク・アリーナ」(タリンのリンク名)に登場したのは2度の世界選手権覇者、
ドイツのサフチェンコ&ゾルコヴィーだった。
私は観客席で、ロシアの有名なコーチ、ヴィクトル・クドリャフツェフ(ブッテルスカヤ、クリムキン等の元コーチ)のそばに座っていた。クドリャフツェフのことをモスクヴィンは、技術を教えるのがうまい世界有数のコーチと評されていると話していた。モスクヴィンはまた、「クドリャフツェフの元を去っていった門下生も多いけれど、それは仕方ない。すべての選手が(同じリンク内での門下生同士の)頻繁に起こる、
非常にレベルの高い競争に耐えられるわけではないからね」
タリンで、クドリャフツェフはペアの最終グループに大いに関心を持って観戦していた。そして、私が求めるとユウコ・カワグチ&アレクサンドル・スミルノフの滑りの感想を聞かせてくれた。
「二人の滑りはとてもよかったですよ。この二人には数年前から関心を持っていました。
二人の滑りにはいつも『ストーリー』があります。私の個人的な見解ですが、非常に正しいコーチの考えがよくわかります。カワグチ&スミルノフが氷の上でやっていることを見るのは面白いです。
二人の間には長いこと失敗、不安定さ(補足:成績の浮き沈み)、チームワークの悪さ(補足:二人の演技がかみ合っていないこと)がありましたが、それがあっても、このペアはいつも他のペアと違い、光る何かがありました。数々のエレメンツ、一枚の絵のような一貫したプログラム、エレメンツの入り方。
タリンでの二人の滑り――私が思っている、ペアスケートのあるべき姿――-は完成に達していました。
エレメンツがクリーンに決まったとか、シンクロ性が素晴らしかったとかそういうものではありません。
大切なのは、そのプログラムが最後の瞬間まで、観客の注意を惹きつけていたことです。
もしカワグチ&スミルノフがドイツペアより難度の高いエレメンツをやっていたら、この欧州選手権で
カワグチ&スミルノフは明らかに無敵だったと思いますよ」

私たちの会話のこの瞬間、電光掲示板にサフチェンコ&ゾルコヴィーの点数が出た。
彼らのフリーの点数はカワグチ&スミルノフより1.63点下回っていた。過去三回の欧州選手権で余裕の優勝を飾ったドイツペアはこの試合で2位だった。
クドリャフツェフは更に付け加えた。「これは何よりタマラの勝利です。彼女がこのペア(ユウコ&サーシャ)に四年間でやってきたことは、世界のどのコーチもできないでしょう」
そのとき私はかなり昔にモスクヴィナと会って質問したときのことを思い出した。「あなたはカワグチ&スミルノフがいつかオリンピックの金メダルを競って戦えるようになると思っていますか?」 
モスクヴィナコーチの答えはこうだった。「思っていますよ」


******


3週間後の2010年2月15日、バンクーバー五輪のペア競技において、わが国は46年ぶりにメダルなしという結果に終わった。カワグチ&スミルノフはロシアのペア選手の中で最高位だったが、4位だった。
教え子二人の演技の後、モスクヴィナの口から自然に漏れたのは、「これは、完全なる失敗」だった。
1964年からの過去12回の五輪でソヴィエト、ロシアのペア選手はただ単に表彰台に上ったのではなく、金メダルをとってきた。そのうちの2度の功労者はモスクヴィンで、4度はモスクヴィナだった。

恐らく、(ロシアでは)誰の頭にもロシアが五輪でペアのカテゴリーで負けるということは念頭になかっただろう。モスクヴィナの数多くの成功から、ファンはモスクヴィナとモスクヴィナの門下生には不可能はないと思い込むようになっていた。とはいえ、ペアにおけるロシア敗北の予兆というものはあった。
2002年のソルトレイクシティ五輪でベレズナヤ&シハルリドゼが優勝すると信じていたのは最も頑固な、楽天的な人たちだけだった。奇跡でも起きなければこの二人が勝つことはないとわかっていた。
だが、この二人が優勝した直後、振って沸いた喜びは、強固な確信にとってかわった。「我々(ロシア)はまた、一番になった。そしてそれは永遠に続くのだ」

※長くなったので、5回分を2回にわけました。あと1回続きます

カワグチは当時のことを次のように回想している。
「最初はこんなに長く日本から離れるという話ではありませんでした。当初、モスクヴィナコーチから2週間のレッスンを受けることになっていました。私はすごくペアで滑りたかったのです。
私が練習していた千葉のリンクではアイスダンスのカップルがいて、ロシア人コーチヴィクトル・ルイシキンが働いていました。そして同じリンクで3年間アレクセイ・ティホノフが(川崎由紀子さんと)ペアで滑っていました。私にはパートナーはいませんでした。日本の男の子たちはペアにはまったく関心がないのです。
モスクヴィナコーチのところで目をつけた人の中でもこれといった人は見つかりませんでした。
それでモスクヴィナコーチは私はもうしばらく一人で滑らないといけないと言いました。
それからサーシャ・マルクンツォフが現れました。アメリカのモスクヴィナコーチから電話があり、
私はアメリカに渡りました。ですが、私たちをトレーニングすることになったのはイゴール・モスクヴィンでした。
サーシャ(マルクンツォフ)はまったく英語が話せず、私もロシア語はまったく話せませんでした。
ルイシキンのところで滑っていたときに覚えた「こんにちは」「ありがとう」と「さようなら」だけでした。
サーシャ(マルクンツォフ)は私に何か説明するとき、私がさながら人形のように私の腕や足、頭を回しました(補足:言葉で説明しないで、行動で一方的にポジションを取らせたの意)。当時、私はそういう動きが自分にとっていいか悪いかさえも説明することができませんでした。ただ、全部こなせるよう頑張りました。そうしてなんとなくモスクヴィンコーチが望むことができました。
それから、サーシャ(マルクンツォフ)は引退しました。私たちは日本の試合に出たり、サーシャ(マルクンツォフ)のビザを延長するために2ヶ月ごとにアメリカから日本に行かなければなりませんでした。
ときにはこの移動時間が氷の上に立つ時間よりも長いこともありました。また、書類の申請中、コーチがいない状態で3ヶ月も日本にいなければならないこともありました。そうしてサーシャ(マルクンツォフ)は引退を決意したのです。
私はアメリカのモスクヴィナ&モスクヴィンのもとに残りました。
最初はアメリカ人のデヴィン・パトリックと滑り(補足:パトリックと組んだのは、ロシアに渡ってからです)、その頃からロシア語を勉強するようになりました。イゴール(モスクヴィン)の話す言葉を覚え、
モスクヴィナが突然誰かとロシア語ではじめたらそれを注意深く聞くようにしました。
ですが、ロシアに来るまで、ほとんどロシア語はわかりませんでした」

「最初、いかに大変だったか想像つきますよ」

「いいえ。私は大変じゃありませんでした。話せなくてもいいんです。ただ、私はいつもロシア語を聞いていました。リンクでも、外でも。大変だったのは、もちろん最初のパートナーとペアを解消したときです。
ですが、私はすぐにネガティブな感情をすぐに消すことができるのです。何でも起きればいい。でももう起きてしまった。じゃあ、明日のことを考えればいいのです。(補足:要するに「過ぎたことは気にしない」)
骨折したときも、同じことを考えていました。骨折した。でも、骨折する前に時間を戻すことはできませんよね。怪我は誰にでも起こりうるものです。だから、私は早く回復することだけを考えました。

今ではペアで滑り始めたときより、もっと多くのことを望んでいます。何をしたいか考えないといけないのですが、心の中の声はそんなことを考える必要はないと言っています。考えすぎると、スケートの楽しさがなくなってしまうからです。楽しくなくては何もうまくいきません。
以前は今のような高いレベルで試合に出るということはありませんでした。そういうことが起こりうるということすら考えてもいませんでした。
タマラはとても多くのことを要求してくるのですが、それが私にとっては難しいこともあります。
私はマスターする速度が遅いのです。アクセル、ごく普通の1回転半のシングルアクセルをマスターするのにも、私は3年かかりました。3年ですよ! 現在私たちはトレーニングごとに(新しいことを)学び、
それをすぐに高いレベルでやってみせないといけません。常に考えて、考えて、考えて、頭を使わないといけないのです」

2007年末、私はカワグチ&スミルノフに専属衣装デザイナーとスタイリストがついたことを知った。
「1年前からこのペアの外見をどうにかしないといけないとわかっていました」――モスクヴィナは説明した。「ただ(当時は)そこまでは手が届かなかったんです。ですがこのシーズンは、ある種完璧な外見を達成したいと思いました。
昨シーズンの最重要課題は、二人にペアスケーティング(一緒に滑ること)を教え、
できる限り演技の難度を上げることでした。加えて、ゆうこは怪我と戦わなければなりませんでした。
今シーズンはすべてのことにおいて幾分違っています。完成度、そしてこの先の成長について触れることができます。
私自身、ずっとショートヘアだったことから、自分の力に自信がもてませんでした。
私は(補足:髪をいじったことがないので)、長い髪をスタイリッシュに、そして完璧にユウコに似合い、
競技衣装に合う髪型にすることができるかといえば、恐らくはできないでしょう。
そこでこの仕事を専門家に任せたのです。ついでにサーシャの髪も専門家にやってもらうことにしました。

「コーチ、あなたはユウコとサーシャのプログラムの難度を上げるのを急ぎすぎているんじゃありませんか?(補足:最初から難度が高すぎるの意)」――私は思い切って聞いてみた。
モスクヴィナは肩をすくめてこう言った。「ロドニナ&ウラノフから始まるソ連のペアたちはいつもこういう方法をとってきたのですよ。その中に私も入っています。私の門下生たちもです。ワロワ&ワシリエフ、
ベチケ&ペトロフ、ミシュクテノク&ドミトリエフ、カザコワ&ドミトリエフ、ベレズナヤ&シハルリドゼ。
競技戦の経験、知名度、様々なスタイルのアーティスティックなスケーティング、カワグチ&スミルノフは既にもっていました。ではどうやったら他のペアに勝てるのか? クリーンなスケーティング? 
今では多くの人たちがクリーンに滑っています。そして上位にいます。その下にはいたくはありません。言えるのはたった一つ。プログラムから難度の高いことを除くのはたやすいことですが、
どんな方法が正しいかというのは、試合を見ればわかります。コーチが正しいかそうでないかは、
その選手が勝つこと、それだけです」(補足:つまり勝った選手のコーチ、やり方が正しいという意)


******


五輪シーズンの初め、モスクヴィン&モスクヴィナチームとその最初のペアについての記事を書くためにペテルブルグに行ったとき、私はモスクヴィンとモスクヴィナが言い争っているのをたまたま耳にした。
「タマラ、ソルトレイクシティで金を取ろうとしたカナダのペアのこと覚えているかね。
男性が女性の手を取り、女性が男性を見た。(思わず)心が震えたよ」
「お父さん(モスクヴィンのこと)、それをchemistryと言うのよ。皆それを学ぶのよ」
「何でお前は教えないんだね?」
「ユウコとサーシャは一緒に滑るようになってまだ4年しか経っていないんだもの」
「それにしてもお前は教えてないじゃないか。説明してやらないと……」
「じゃあ、あなたがユウコに言いなさいよ。あの子は眉根を寄せて(にらむような目つきで)見ているじゃない。皆をよ。私もあなたも」
「違うよ。私にはそういう目つきをしないよ」
「じゃあ、ごはんをあげたら、(喜んで)笑うのね」
カワグチを世話する必要性が双肩にかかってきたモスクヴィナの妹タチアナはユウコを警戒していた。
「私の専門は生理学です」――タチアナは私に言った。「トレーニングには正しい栄養摂取が必要です。なのにユウコときたら、まったく食べないんですよ。食べるのは日本から送られてきたものだけ。そんなんじゃ、やってけませんよ。まったく日本人の考えていることはわかりません」

モスクヴィナはユウコをビジネスパートナーとして受け入れていた。
「私は何かを決めるとき、それが正しいかどうかユウコに確認を取ったりもします。例えば試合に行くとき、いつ、どうやって試合に行くべきか。そういった場合、私はユウコと仕事の同僚のように話します。
私たちの意見はよく合うのです。それにユウコは西洋(的な考えをする)人です。はっきりしていて、
よりプラグマティックです。その点、ロシアに住む他のスケーターたちと一線を画していました。
氷の上でゆうこは紛れもなく主導権を握っています。ですが、事務的な問題(補足:要するに、ロシア語を使って話をつけたり、インタビューに答えたり等のロシア語での煩雑な問題)となると、前に出るのはサーシャです。二人の関係はそうやってお互いの長所で補い合い、バランスを保っているのです。
ユウコはロシア語を素晴らしく上手に話しますが、ニュアンスを含んだ難しい専門用語がいつもわかるとは限りません。それを感じると、ロシア語から英語に切り替えるのです」
「生活問題など、ユウコはあなたに相談してきますか?」
「いいえ。彼女の人生に干渉しすぎてはいけません。パーソナルスペースが必要です。とはいえ私は勉強のこと、パートナーのこと、家、不動産、将来の仕事、多くのアドバイスはしています……」
一方、モスクヴィンはユウコがペテルブルグで快適に過ごせるように、できるだけ多くのことをしてあげようとしていた。モスクヴィンは一人で外国生活をしたとき、それがいかに大変だったことを理解していた。アメリカ生活の時期は、コーチにとっても、ユウコにとっても同じくらい大変だったのだ。

「タマラは一人で何もかもするというのは難しくなってきていると自覚しているんだと思います」――この件に関してアルトゥール・ドミトリエフが言った。「それでコーチ業にオクサナや私を引き入れたのです。
タマラは自分にできないことがあるということを認めるのを恐れない人です。 タマラと一緒にいて面白いのは、タマラがいつも何か新しいアプローチを探しているからでしょうね。ルーティンワークでさえ、いつも何か新しいやり方を考えているのです。彼女自身、そういうことが好きなんでしょう。
あるやり方をやって、それがうまくいかなかった。それを別のやり方でやってもやっぱりうまくいかない。
三回目のやり方でも駄目。じゃあ、もう一回最初のやつをやってみないと……。
時にはこういうのを見るのが馬鹿らしく思えることもあるんですが、仕事するにはとてもいいです」

ロシア・日本ペアのトレーニングに急遽派遣されたスタッフ陣の力はすぐに成果をもたらした。
2006年12月(補足:正しくは11月)モスクワ開催のロシア杯でのカワグチ&スミルノフの演技はペアの試合において最も印象的なものとなった。通常、国際試合に出たことのない(ランクのない)選手がグランプリシリーズに出場することはありえない。ユウコとサーシャはルイジニキのリンクに立てたのは、
開催国は自国の裁量で各カテゴリー一名(一組)の選手を試合に出せるという権利があったからだった。

初出場の二人に与えられたチャンスは無駄にはならなかった。二人は与えられたエレメンツをきわめてクリーンに、そして正確にこなした。唯一のミスはフリーで、三回転スローの着氷の際、女性が手をついてしまったことだった。不思議な組み合わせ――やせっぽちで耳が大きく、足が細い女の子と逞しい体をしているけれど、怯えた目をした経験の浅い少年のペアは、まだ高くは飛べないけれど、とめどなく空へ向かって行こうとする超音速の飛行機のような印象をもたらした。

「できることをすべてやられたのですか? それともフリーではより難度の高いエレメンツを入れるリスクをおかさなかっただけなんですか?」――私は演技の後、ユウコとサーシャに聞いた。「私たちは今週できることを全部しました」――とても真面目に、素晴らしいロシア語で私に答えたのはユウコだった。
「来週にはもっと多くのことができると思います」

ルイジニキでの演技前、カワグチ&スミルノフは国際試合に出せるペアではない、国際試合に出しても将来はないペアだと思われていた。それは(補足:日本人とロシア人の組み合わせの異質な)外見だけが原因ではない。違う国籍を持つペアは世界選手権までは出場することができるが、オリンピックには出場できないからだ。
ユウコが日本国籍を放棄するなどとは、誰の頭にもなかった。
モスクワでユウコはこういうことを言っていた。「日本では二重国籍は認められていません。
ですが私は日本の首相に会って私にだけ特例を作ってもらえるようお願いしたいと思っています。
私は本当にオリンピックに出たいんです」

数日後、カワグチは足を骨折した。
それは三回転スロージャンプの着氷の際に起こった。その日のトレーニングは軽いメニューで、スロージャンプはトレーニングの一番最後にやることになっていた。 女性の緊張感のなさが原因だったのか、ただ不幸な事故だったのか、頭に有名な映画のフレーズが過ぎった。
「落ちた。目を覚ました。ギプスだった」(補足:ロシアの映画の中の有名なフレーズです)

2ヵ月後、ユウコとサーシャは再びリンクに立っていた。トヴェーリのマイナーな試合のリンクに。 モスクヴィナから聞かされた驚きの事実は、怪我の後、初めて滑ったのはほんの数日前だということだった。
「私はユウコとサーシャがスタニスラフ・ジューク記念のジュニアの大会(トヴェーリ開催)でショートプログラムを滑れるよう取り計らいました」 ――モスクヴィナは言った。「主催者に話したところ、ユウコとサーシャが試合後、表彰式の前に滑る許可をくれました。この試合は硬い氷の新しいリンクで行われました。私はユウコとサーシャがすぐに、トレーニングなしで、いつもより小さいサイズのリンク、普段経験したことのない硬さの氷に適応し、滑ったことに満足しました。二人は三回転トゥループ、三回転スローサルコウを跳びました。怪我をした足で着氷しなければならなかったのです。つまり心理的な問題もうまく乗り越えることができました。ペアスピンでミスが出ましたが、これは仕方ありません。ユウコとサーシャはペアを組んでまだ日が浅いのですから。

もう少しお話しますと、われわれはトヴェーリに行くつもりはありませんでした。ただ、ロシアフィギュアスケート連盟の幹部が代表選手の交代(補足:川口&スミルノフは代表落ち)を決定しようとしていたため、トヴェーリに行き、ユウコとサーシャがどんな状態であるかを見せるためにもう一度ショートプログラムを滑る必要があったのです。
決定を下す人間にわかってもらうのが肝心です。袋に入った猫(ロシアのイディオム:どんな猫が袋に入っているかわからない、転じて何が入っているかわからないの意)を見せながら、ロシア代表の地位を認めてもらうのは不可能じゃないですか?
つまり、コーチとしての私の課題はその人たちに認めてもらうために手を尽くすということでした。

フリープログラムのほかのエレメンツもユウコ&サーシャはすべて練習ではやっています。
ジャンプ、スロー、リフト、ツイスト……全部です。既に申し上げたとおり、怪我をした足で着氷しているのです。
他の問題は、私はトレーニングのスピードを上げたくなかった(補足:無理をしたくなかった)ということです。ユウコの骨折はまさに骨折でした(補足:完治に時間のかかる立派な骨折だったの意)。
このような怪我のあと、普通の人なら回復するのに6ヶ月はかかることでしょう。
また、私は観客に未完成のプログラムを見せるのには反対という信念を持っています。
とはいえ、3月中旬にはニつのプログラムをいいレベル(補足:完成度があがった状態の意)で見せられる状態になっていることを確信していました」

東京での世界選手権(2007年)でデビューを飾ったユウコとサーシャは9位だった。
ショートプログラムが終わった時点では4位だった。

許可がおりましたので、5回にわけ、当ブログで順次掲載していきます。

翻訳にあたって

※1 主要人物の名前表記は極力日本人になじみのある英語読みで統一しました。
また、ロシア人の名前は名前で読んだり、名前+父姓で読んだりとパターンが多く、
日本の方にとっては同一人物であることがわかりにくいため、地の文で名字表記のみに統一した箇所もあります。

例)フルネーム:タマラ・ニコラエヴナ・モスクヴィナ
「タマラ」、「タマラ・ニコラエヴナ」、「モスクヴィナ」、「タマラ・モスクヴィナ」→「モスクヴィナ」

※2 ロシア人ジャーナリストがロシアのフィギュアスケートファン向けに書いたもののであるため、
日本のフィギュアスケートファンにとってはわかりにくい箇所が多々あります。そういった箇所には補足説明を入れました。

※3 ロシア人視点での表現は直接的すぎたり、辛辣なものもありますが、文化の違いと思っていただければ幸いです。



<個人プロフィール>
ユウコ・カワグチ(川口悠子)
1981年11月20日生、愛知(日本)。
モスクヴィン・モスクヴィナ夫妻のチームに移る前はシングルスケーターだった。
最初のパートナー:アレクサンドル・マルクンツォフ(日本代表)
マルクンツォフとの戦歴:世界Jr選手権銀メダル(2001年)。全日本2002〜2003年優勝。2003年世界選手権14位。
2番目のパートナー:デヴィン・パトリック(アメリカ代表)
2006年からサンクトペテルブルグ在住、アレクサンドル・スミルノフとペアを組みトレーニング中。

アレクサンドル・スミルノフ
1984年10月11日生。アレクサンドラ・ダニーロワ、エカチェリーナ・ヴァシーリエヴァとペアを組む。
川口との戦歴:ロシア選手権優勝(2008年〜2010年)。2008年欧州選手権、2009、2010年世界選手権銅メダル。2009年欧州選手権銀メダル。2010年欧州選手権優勝。バンクーバー五輪4位(2010年)


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モスクヴィナチームに日本人のユウコ・カワグチとアレクサンドル・スミルノフが入る前、
モスクヴィナはその人生における明らかな低迷期にいた。モスクヴィナはユリヤ・オベルタスとセルゲイ・スラヴノフとのトレーニングを始めようとしていたが、しばらくして二人は前のコーチ、ニコライ・ヴェリコフとリュドミラ・ヴェリコフワ夫妻のもとに戻ることにした。 モスクヴィナの精力(エナジー)と要求についていけなかったからだ。
それから同じような運命に見舞われたのがマリア・ムホルトワとマクシム・トランコフだった。

当時モスクヴィナはヴェリコフ夫妻とうまく話をつけたというデマが飛び交っていた。
より将来性のあるペア(ムホルトワ&トランコフ)との交換で、オベルタス&スラヴノフをヴェリコフ夫妻に戻したのだと。カワグチとスミルノフはただ、ムホルトワ&トランコフのスパーリング相手(練習相手)としておまけで入ってきただけなのだと。

いずれにしても、シナリオは別のものになった。ムホルトワとトランコフはモスクヴィナチームで長くは続かなかった。そうして、ロシアのぺアスケートでは本当に珍しい、国が異なる、日本人とロシア人のペアが(モスクヴィナチームに)残ったのだった。

当時、私はアレクセイ・ミーシンからこんなことを聞いた。
「タマラはあの年でなんと幸運なんだろう。カワグチのような生徒を持つことは、あらゆるコーチの夢だよ」
ユウコの希望で、ユウコとサーシャがモスクヴィナチームへの移籍してきたということは、何ら驚くべきことではなかった。実際、彼女はこのチームで育ったのだから。ユウコはモスクヴィナがアメリカでコーチ業をしていたとき、彼女の元に渡った。
当時ユウコと当時のパートナーアレクサンドル・マルクンツォフを指導していたのは主にイゴール・モスクヴィンだった。モスクヴィナはソルトレイクシティ五輪に向けてトレーニングしていたエレーナ・ベレズナヤとアントン・シハルリドゼにかかりっきりだったからだ。

「ユウコは当時から真面目な子だったよ。とても注意深かった」――モスクヴィンは回想した。 「ユウコはコーチが正しいか正しくないかということは一度も考えなかった(100%指導者に従っていたの意)。
我々のところに来たときのユウコには数々の技術的な欠点があった。 例えば、ジャンプの一つ、サルコウをユウコは長い間、間違った跳び方をしていた。意地になってね。選手はそのエレメンツを何が何でもやらないといけないという考えに陥ると、技術的な面への意識が及ばなくなる。(補足:ジャンプを跳んで着氷することが大事という意識であれば、正しい跳び方、質の良し悪しは二の次になるの意)
矯正には長い時間がかかった。それにユウコは我々とはあまりトレーニングしなかったしね。
マルクンツォフとは短期間、その後のパートナーたちと時間を費やすのは意味のないことだった」
(補足:その後のパートナーたちと組んで練習した期間が非常に短かったの意)

モスクヴィナ夫妻がペテルブルグに戻ったとき、カワグチはすぐに後を追ってロシアに渡り、彼らと更に3年間トレーニングをした。
2006年ユウコはヴェリコフ夫妻のチームに入ることを余儀なくされた。そのチームでユウコはパートナー、アレクサンドル・スミルノフを見つけたからだ。 (補足:スミルノフ選手はヴェリコフ門下生です) 
モスクヴィンのところにユウコがパートナーを連れて戻ってきたのは3ヵ月後のことだった。そしてすぐに全身全霊をかけたトレーニングが始まった。

モスクヴィナがユウコを呼び寄せたという噂が立ち、モスクヴィナは明らかに苛立っていた。
(補足:ヴェリコフ夫妻のところからモスクヴィナが一方的にユウコとサーシャを奪い取ったという噂が立ったという意) いつだったモスクヴィナがかなり激しく私に言ってきたことがあった。
「ナタリヤ・パヴロワ(補足:オクサナ・カザコワの前のコーチ。モスクヴィナ門下生のドミトリエフはパートナーであったミシュクテノクが引退後、カザコワとペアを組みました)とどう片をつけたかなんてあなたにも話しませんよ。ヴェリコフ夫妻とどう話をつけたかなんて(補足:あなたにも話しませんの意)。普通、誰もちゃんと最後まで清算するなんてことはしてないんです。が、私たちは例外で、ユウコがヴェリコフ夫妻の元を去ったあと、ニコライ(ヴェリコフ)と向かい合い、今後の経済関係について話し合いました。私がアメリカにいたとき、ベレズナヤ&シハルリドゼは現役でしたが、カザコワ&ドミトリエフは既にアマチュアを引退してプロになっていました。私はレーナ(ベレズナヤ)&アントン(シハルリドゼ)の交代要員としてカワグチ&マルクンツォフを教えていました。このペアは解消という結果になっしまいましたけどね。
現在は、ユウコがロシア代表として出られるよう書類を揃えてありますよ」

モスクヴィナのトレーニングスタッフ陣にカザコワ、ドミトリエフ、そして当時ドミトリエフの妻だったタチアナ・ドルチーニナが入ってきたのはその頃だった。

2月21日に当ブログで告知した「ゆうこ&サーシャ ファンの集い」ですが、
震災の影響で世界選手権がモスクワ開催となったことから無期限延期となりました。

当選された方には5月中に記念品を郵便にて送付、
惜しくも落選された方にも5月下旬から6月1日にかけてお礼メールを送付させていただきました。

3月に発送を予定していたお礼メールですが、震災の影響によるスケジュール大幅変更により、
送付が遅くなりまして申し訳ありません。

送信時に、何名かの方につきましてメールアドレスの情報不備のため、エラーで戻ってきております。
お心当たりのある方、まだ受け取っていらっしゃらない方は、
応募時のお名前(姓・名)受信可能なメールアドレスをお書き添えの上、
下記のコメント欄(承認制)よりご連絡いただけますでしょうか?

よろしくお願いいたします。

管理人

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